「手加減の役割」にある不誠実さ

   「仕事は無駄でも良いのかもしれない」という理屈を、とりあえず導いた。

   しかし、「手加減の役割」を、「なにか役割がないと居づらいだろうから」もしくは「頼られるときっと嬉しいだろうから」などと勝手に慮り、“あてがう” という策をどうしても積極的に採用する気にはなれない。

  そこにある、「本当にアテにしているわけじゃない」「故に本心からの感謝が生まれない」という不誠実さを、自分に許すことができないからだ。「人を頼る」ことを手放しに礼賛し、「まず、自分でやってみる(どうすればうまくいくか、試行錯誤してみる)」という大切なことを捨てさせるような論調には、そこにコミュニティに属する人々の参画可能性があったとしても、どうしても賛同できない。それが、他の誰かの「まず、やってみる」を妨げにもなる。または、「なにか役割がないと居づらい」からという理由で役割を作ることは、かえって「役割がないと居てはいけない」「ただ、いる、を許さない」とかいったことを追認することになりはしないだろうか。

社会は布マスクを受け入れた

   「アベノマスク」配布が決まった当初、WHOは布マスクについて、「いかなる場合も勧めない」としていた。

さらに「アベノマスク」配布が決まった背景には官邸官僚が「布マスクを配れば国民の不安はパッと消えますよ」という進言をしていたことがあるのだそうだ。

結局、「布マスクは勧められるものではないが、あくまでも国民の不安の解消(および医療用マスクの買い占めを防ぐ)のために」と配られたのが、布製の「アベノマスク」だったと言えよう。

 

   人々は当初、「アベノマスク」を酷評した。しかし、去年までは誰一人として感染症対策として着用していなかった「布マスク」の存在そのものはなぜかヌルッと受け入れた。「感染症対策」と銘打って市井の人々は手作りマスク作りに勤しみ(「手作りマスク作り」が目的なら集まっても良い、という謎のコンセンサスも一部存在した)、いつしか各メーカーからは各種布マスクが発売されるようになった。

 

   もしも、布マスクが「アベノマスク」配布時と変わらず「(性能では確実に劣るが)医療用マスクが手に入らない時期の代用品」という位置づけであったなら、医療用マスクが普通に手に入るようになった今頃はどんどん医療用マスクに「戻る」はずだ。ところが、印象としては変わらず布マスクを着用している人をたくさん見かける。マスクですらない、ハンカチやバンダナを折ってゴムを通したものや、「ネックゲートル」で顔を覆っている人もいる。たとえ手作りの布マスクであれ、飛沫が増えるとされている(新型コロナの感染予防、どの素材のマスクが最適? 布マスクやバンダナの効果は(堀向健太) - 個人 - Yahoo!ニュース)ネックゲートルであれ、着用している人に「おい、それでは密閉性が足りないだろう!」と怒り出すような人が現れるケースはおそらく確認されないだろう(「マスク警察」にはぜひ、そこまで頑張ってみてほしい)。「いいえ、医療用マスクは手に入っても、今時期暑くて息苦しくて…着けるならせめて快適なものを」と不織布よりも目の粗いメッシュの通気性重視のマスクを着けているのなら、目の細かさやその密閉性でもってウイルス対策となるはずの医療用マスクの本質から外れた「マスク状のサムシング」を着用していることになる(もちろん、中には高機能布マスクも存在するのだろうが…)。

今や、それがさらに曲がって「口と鼻を何かで覆ってさえいれば良い」という認識さえ出現した。「一番の罪は、目に見える部分での【無策】だ」「口と鼻を何かで覆うことが、他者への思いやりの証であり、それを欠くものはすなわち思いやりを欠く人物だ」と言わんばかりに。「口と鼻を何かで覆っていること」ーーそれを免罪符にして【密集・密接・密閉】に抵触するような活動をしている。他の「対策」は記録に残さない限り、目に見えないから。

   いずれにしても社会は玉石混交の「布マスク」の存在を受け入れた。そのような「布マスク」を、再び容易に入手可能にになった医療用マスクと比較して積極的な選択肢として受け入れたということは、結局、「感染症対策」のポーズを取った「世間対策」もしくは「対人対策」ということを示唆してはいないだろうか(もちろん、各種布マスクには飛沫防止にいくらかの効果が認められているが、医療用マスクに性能面で敵うとは到底考えられない)。布であれマスクの属性(:飛沫防止効果がゼロでない)だけを見れば、「あるに越したことはない」ということになるだろう。

   しかし、もっとシンプルな部分、「常に顔を何かで覆われていることの物理的・心理的不快感」については、おそらく多くの人に共通するはずなのに、「感染症拡大防止」の錦の御旗の元では決してその妥当性を認められることがない(「より快適なマスク」「よりオシャレなマスク」の着用は「諦め路線」の上にある)。その不快感の積み重ねは、「不快感」という言葉では表現しきれないのではないだろうか。不十分とわかっていてさえ、決して快適ではないと思っていてさえ、着用せざるを得ない理由(のようなもの)に哀しささえ覚える。

 

   僕が「布マスクを受け入れた社会」に対して危惧しているのは「正しくないとは言い切れないが、さして正しいとも言い切れないことを、不安の拠り所を求めて絶対化し、思考停止に陥り、相互監視が進むこと」および「その不安から、目に見える敵を作り他人を叩くことで安心を得ようとすること」「感染の要因はいくつもあり、誰でも感染しうるのに、マスクの有無(および、感染者が認められてはじめてその不完全さのみが浮き彫りになる「対策」)だけを取り沙汰して、あくまでも感染の責任を人に帰す」というようなことだ。本来は、マスクの着用について、マスクの性能・性質が「飛沫に効果がある」という事実を切り取って、「じゃあ、つけない理由はないよね」となるのではなく、「マスクの性能・飛沫防止の性質」そのものと、「密」を避けられるような状況かどうか・感染拡大エリアかどうか、といった状況判断と天秤にかけられるべきで、その結果、「着用した方がいい」と判断されれば着用し、「そうでなければ、外す」ということもまた、認められて然るべきだ。加えて恐れているのは、「布マスク」のようなものによって文字通り「口を封じ」られた人々の累積的な抑圧経験に加えて「他者を守ろう」といった「人道的な」連帯がますます「人様に迷惑をかけないように」という風潮を加速させることだ。そうして、孤独で手応えのないプロセスを経てなんとか手にした自由と文化を、不安のもとにパッと手放してしまい、失われていくことだ。そんなことなら、神頼みの方がよっぽどマシだ。

老いてなお

  「老いることができない」とか「『若者』から降りることができない」というフレーズを目にして以降、人付き合いのなかでそのようなことが頭を過ぎることが度々ある。

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「若者でいなければならない」。それはあえてネガティブに言うならば「常に自分より若い人と競争しなければならず、しかも、そこから降りられない」「そのために、いつまでも『若者』としていつまでも『可能性の中を生き』なければならない」という強迫観念に近いものだ。決して他人事ではない。

 

   老いてなお尊敬されている、もしくは「役立たず」だと後ろ指を差されない安心があってはじめて、適切に老いることができるのでは、というようなことを考える。そう考えると、年功序列的な考え方はぐるっと回って人に老いることを「良い意味で」促進する役割を担っていたのかもしれない。

   (ちょっと皮肉を込めて)誰かに安心して老いて欲しい(≒上記ツイートに則り「知識・才能・未来を持つのを許して」欲しい)と思うならば、形はどうあれ尊敬を与えなければならない。年功序列的考え方は、それを見事に形式化(必ずしも真の敬意が伴わなくとも良い)していたのだと気付いた。

    ただ、いざ自分が「老いる」番になったとき、時代の変化に伴い新しいものが次々と台頭してくるなかで、年功序列だけで尊敬されるとは考えがたい。老いてなお、尊敬が与えられるとすれば、それはきっと「若者」に確かな尊敬を送ることができるようになった時なんじゃないか。尊敬を送る、その経験値だけは、今から貯めることができるんじゃないだろうか。そしてそのいつか訪れる「老い」の中にこそ、かつて自己が拡散していたのとは異なり、自分が追求すべき大事なものが残るんじゃないだろうか。

とりあえず、無駄でもよくね

    今となっては「あれは無駄だった」と思うことは、僕にとっては「(パッケージとしての)就活」だろうか。今後も「やっとけばいつか役に立つから」という内外からやってくる詭弁によって、ひたすら「やる」こと(「いる」ことではなく)で埋め尽くされることを危惧している。特に、それが善意に満ちているほど。

  「やって無駄なことなんて何ひとつない」とはよく聞く。ただあくまでも「無駄じゃなか」ったと分かるのは、その経験が事後的に役に立ってはじめてのことだ。それを、まるで経験から「元を取る」かのように「あの経験は確かに役に立っている」と言い切ることに固執してしまっては、かつて「無駄だ」と思わしめた自分の中に存在した不本意性から目を背けることになる。そうすると、不本意なことでも「やる」のが美徳ということになってしまう。そうではなくて「かつてあれをやったが、あれは無駄だった」と言い切ってしまうことができれば、楽になれると思う。意味付けは何度でもし直すことができるから、後で役立った時が来てはじめて「無駄じゃなかった」と言えればいい。

カンユウ文句

   相手のリテラシーを超えて、自分のお勧めしたいものを強く提案する、という点で僕にとっての「格安SIM」と、彼女にとってのその宗教は大した違いがないのかもしれない。

   僕が他人に強烈にお勧めしたいものがあるとすれば、それは格安SIMだ。「それは詳しい人じゃないとわからないんでしょ」と渋る(しかも動画を見まくることのない)中高年にこそ「あの、〇〇モバイルってところに行ってみて。今使っている(D・A・S)社から乗り換えたいと伝えればいいプランを紹介してもらえて、まずゼッタイに安くなるから!」と言って勧誘したくなるかもしれない。その場合、おそらく自分の気持ちは相手の経済的助けになる提案がしたいと思う善意でいっぱいだ。もし仮に自分が「〇〇モバイル」の社員で契約ノルマを背負っている立場なら、その勧誘は一層鬼気迫るものになることは想像に難くない。それを聞く人は、眉に唾をつけながら聞くのだろう。

   昨日知り合いから新興宗教の勧誘を受けた。主な勧誘文句は「これまで名医でも治すことのできなかった難病が治った例がある」「自分自身の長年に渡る原因不明の体調不良が改善された」「正しい教えに則ってきちんと勤行をすれば、必ず成仏できる」「知らないと損」「成仏できないことが、どんなに苦しいことか」「まず、あそこにある〇〇という場所に行って、正しい教えに触れて欲しい」というようなものだった。僕は終始眉に唾を付けては重ね、を繰り返しながら、恐ろしいほど純然たる善意に満ちた眼差しの彼女から “有難い” 話を聞かせてもらった。「なるほど、それが貴女のパワーの源だったのですね」と納得し、最終的には「しかし僕は『やらない理由がない』からやるのではなく、自分の中に確たる『やる理由』が欲しいから」ということで、その話の流れで施設に行く提案は断った。「もしも『やる理由』ができたその時が来たら、ぜひ相談させて欲しい」と、一応、加えた。

「陰謀論おじさん」が「エラく」ない

  先日ある人から「新型コロナウイルスは陰謀だ」という感じの話を聞いた。「《みんな》は本当のことから目を逸らされて騙されている。けれどもおれは本当のことを知っている」みたいな話だったので眉に唾を付けながら聞いていた(もちろん、その話の中にも発見はあった)。話を聞くにその人はおそらく徹底した反権力論者だ。他にも多分そうした(しかし、間違いとは言い切れない)言説を信じている人は少なからずいるんだろうな、と思った。

   そんな感じの「陰謀論おじさん」はこれまでに何度か出会ったことがある。「陰謀論おじさん」は研究熱心で、よく勉強し、よく調べている。ただ、「エラく」ない。よく勉強し、調べ、コレクトネスを追求する姿勢と「エラく」なれないこととに関係があると踏んでいる。

   「マジョリティを『気づかずにいられる人』と訳す提案」ツイートが物議を醸している。それに則り、マジョリティを(平たく言うと)「良くも悪くも、(自分が困っていないから)頓着のない、ごく普通の善良な市民」だとすれば、「エラい」人の役割は、98%のマジョリティを動かすこと。人が皆同じでない以上、マジョリティを動かす(完全たり得ない)セオリーはまず「2%のマイノリティに対する配慮を欠くもの」になる(逆に、配慮がなされていないという自覚があるからこそ、マイノリティとなる)。

    また、システムが大きくなり効率化・画一化され、社会に大きな成果を生み出すほど、その裏には苦しんだり、搾取されたりする人が出てくる。安価で良質な商品・サービス提供の裏側に搾取されている人がいるという例は枚挙にいとまがない。苦しみ・搾取される一部の人や、「配慮されない」マイノリティの存在がありながら、マジョリティを動かすセオリーを時に断行せざるを得ない。「エラい」立場になるに伴う、そのような自らの加害者性に直面したとき、自らがコレクトネスに対してコンシャスであればあるほど、苦しみが増す。責められる余地を自らの加害者性の中に認めながら、それでもなお、悩み抜きなんとか共存する体力があるか、もしくは「被害者」の存在について【完全な無知】か、さらには【完全な共感の欠如】でいられる人物だけが、「エラく」なり、「エラく」いることができることになる。

善意と反緊縮

緊縮財政に対抗するのは、現場の「善意」なのだろうか?という疑問から始めたい。

 

   僕はいわゆる「ゆとり世代」かつ「デジタルネイティブ世代」だということもあり、どちらかというと「働き方改革」側に立っている。デジタルツールを使うことによって省ける手間は極力省く。「それによって生まれた余裕に新しい作業を詰め込んではいけない。余裕はあくまでも『余裕』として過ごすことで、それが本当の『余裕』になる」という持論もまた「改革」を後押ししてきた。しかも今の環境では残業代が出ないことや、ワークライフバランスを重視する観点からも、定時になったらとっとと帰る。とっとと帰って家族との時間を楽しみ、よく休み、また明日元気に出勤する。残業は家に居場所のない人がするものだ、とさえ思い込んでいた。

   今の職場では予算(from公金)の縮減により、毎年(少なくとも)一人ずつ職員が削減されることになっているし、これまでも削減されてきた。この、財政政策による人員の削減を受けて「人が少ない」効果がじわじわと効いてきている。自分がいつ辞めさせられるかわからない状態で、健全な人間関係とモチベーションを維持するのはなかなか難しいだろうな、と思う。

   僕が支持してきた「働き方改革」は「人が少ない」という現状にマッチする。「人が少ないのだから」を錦の御旗に掲げ、ムダと思われるものをどんどん削減していく。それがデジタルツール及びデジタルにまつわる自分の知識が生かされるほど、ある種の快感も伴う。そうしていくと、「人が少ない」現状に合わせていくように、作業量が減る。作業量が減ると、「やっぱり、人必要ないよね」という主張を認める材料になりうる(ほんとうは、「余裕」を作るためには余剰な人員が必要なわけだが…)。

   そうやってどんどん「無駄を削減する」ということが、結局は人件費抑制を追認することになりはしないだろうか、という疑問が浮かぶ。あえて、削減の余地があっても、(いわゆる)「無駄」を削減することなく、「そこにはやはり人が必要だ」「もっと予算を増やして欲しい」と主張する方が、反緊縮的ではないだろうか。従来の「非効率的な」方法に固執すること自体は問題だと思いながら、その方が、全体としては豊かになれるのかもしれない。

   ただ、人を雇う予算はすぐに付くわけではない。もしも、目先の、短期的な目線で人件費抑制に抵抗し、「人々により良いサービスを」と思えば、限られた人的・時間的・金銭的(予算)リソース(+余裕)を超えた部分について、現場の人間が「善意の」持ち出しでカバーせざるを得ない。しかも、人のウェルフェアには限りがない。持ち出さない理由は、基本的に、ない。対人サービスにexposedな(さらされた)現場職員が善意でカバーすればするほど、その善意が含み資産とみなされるようになり、結局予算を付けない理由になる。それが、「絆」や「つながり」といった、人間としての連帯に訴えるようなわかりやすいワードに収斂されていくのを横目に、モヤモヤした気持ちでいる。